「あたりまえ」が「あたりまえ」でなくなった時。

あたりまえ こんなすばらしいことを、
みんなはなぜよろこばないのでしょう
あたりまえであることを

お父さんがいる、お母さんがいる
手が二本あって、足が二本ある
行きたいところへ自分で歩いていける
手をのばせばなんでもとれる
音がきこえて声がでる
こんなしあわせなことがあるのでしょうか
しかし、だれもそれをよろこばない
あたりまえだ、と笑ってすます

食事がたべられる
夜になるとちゃんと眠れ、そして又朝がくる
空気を胸いっぱいすえる
笑える、泣ける、叫ぶこともできる
走りまわれる

こんなあたりまえのことを
こんなすばらしいことを、
みんな決してよろこばない
そのありがたさを知っているのは、
それを失った人たちだけ
なぜでしょう あたりまえ

「飛鳥へそしてまだ見ぬ子へより」


若くしてこの世を去った医師井村和清さんが、家族に対する思いを綴った愛の手記の一節です。


明日何が起こるかなんて誰には分からない。
でも明日もあたりまえのようにやってくると信じているから、人はそれぞれ生活を営んでいる。
その生活も年々苦しくなっているから、政治のことを考えるゆとりもないであろう。

顚倒(転倒)とは逆さまになる、ひっくり返ること。真実に反した考えをすることである。

顚倒している自分に私たちが気づく時、それは「あたりまえ」だと思っていたことが「あたりまえ」でなくなった時、今の日本はそれに向かっていると感じる。
それでも平和だけはあたりまえのように享受できる、そう考えている人がほとんどなのだと思う。
そのありがたさを失って初めて気がつくのでは、もう遅い。
参院選で改憲派が2/3を占めるかどうかが重大な争点であったことを知らなかった国民は実に多かったようだ。

あたりまえと思い込むのは非常に危険である。

高尾山2016